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「あるがままに」ラマナ・マハルシの教えより第7章を抜粋してお届けします。
質問者とラマナのやり取りです。 🙂
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質問者
「明け渡しを成就するための手段とは何でしょうか?」
マハルシ
二つの道がある。
ひとつは、「私」の源を探り、その源のなかへ溶け去ることである。
もうひとつは、自分自身の力では、私はまったく無力であり、神のみが全能であること、そして彼に我が身を完全に投げだす以外、他に救われる道はないと感じることである。
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どちらの道も同じ目的地にあなたを導く。
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質問者
明け渡しのほうがやさしいことがわかりました。
私はこの道を選びたいと思います。
マハルシ
いかなる道を行こうとも、あなたは自分自身を一者のなかに失わなければならない。明け渡しは、あなたが「神のみぞすべてなり」、「神の御心のままに」という境地に至ってはじめて完全なものとなるのだ。
その境地はジニャーナの境地と異なったものではない。
ソーハム(「私は彼である」という確信)のなかにはドヴァイタ(二元性)が在り、明け渡しのなかにはアドヴァイタ(非二元性)が在る。
だが、実在のなかにはドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、ただ在るものが、在る。
明け渡しはたやすく見える。なぜなら、ひとたび「私は明け渡します」と口にだして言えば、すべての重荷を神に背負わせ、あとは好きなことを好きなようにすることができると人びとは想像するからである。
だが、事実は、明け渡したあとに好き嫌いを言うことなどできない。
あなたの意志は完全に不在となり、神の意志がその場を引き継ぐことになる。
このような自我の死は、結果的にジニャーナと同じ状態をもたらす。
それゆえ、いかなる道を行こうとも、あなたはジニャーナあるいは至高の一者にたどり着かなければならない。
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